(太極)なるものを分解し他品種とし、スタディが稼働し、創造力が生かせる空間
それが地球だと「思念と物質の進化システム」にて述べました。
つまり別の視点から言えば、ヒトは完成途上の状態であるとも言えます。
だから、そこには当然
「学びを通した引導(導き)」
という仕組みが必要なのです。
下図をご覧下さい。
ヒトは不調和な環境にも、調和した環境にも、いずれにも順応するということです。
これが現実です。
よく宗教団体などが
「人間は神の子」
とばかりに悪想念は本来ないんだっ 、病気も本来ないっ !
の一点張りがありますが、そうなってますか?
おぞましい犯罪がある、ヒトの心に恨み・つらみがある、病があるのです。
ヒトはどちらにでも転べるのです。
仏教ではこのあたりの仕組みを「十界互具」の思想として上手く表現していますので、少し紹介しますと
ヒトには10の存在形態がある。
それが「地獄から仏」までの10ランク。
この10種のシステムは環境に応じて稼働するようにできている。
地獄の思いは地獄のような環境に感応し、天界の思いは天界のような環境に感応する。
おもしろいのは、10ランクの1つ1つが、また同様の10ランクを備えているから10×10で100、
この100が10如(性・相・体・・・)を備えているので100×10で1000、これが百界千如という意識の世界。
だから地獄の衆生も仏になる可能性がある。敗者復活できる。
これは、日本仏教の底流となっている思想で、ヒトの意識を見事に説いています。(のち、天台本覚思想として結実)
いずれにせよ、このように多くの意識レベルを持つ人間であり、
地獄から仏の、どのバージョンを選ぶかは、そのヒトの環境・資質・選択によるということです。
ただ、環境があまりに悪化してくると、ヒトは浅い顕在レベルのエゴからだけの感応力を強くしてしまいます。
そこで、真っ当な「引導(導き)」が必要になる。それが「教育」に他ならないのです。
よく、教育関係者が
「導くなんて、おこがましい。あるがままの教師の姿を飾らずに、表現するだけ・・・」
という主張があります。一見、カッコいい表現ですが、これは、
生きる意味がわからない、生きる目標がわからない、使命感がない、導く力量がない、
己自身が生の意味を問うて生きてこなかった。だから、わからない、よって、こう言うしかないのです。
かつて、私も教育の現場にいました。しかし、悲しいことに、教師同士で
「人間は何の為に生まれたんだろう。?」
という会話は一度もなかったし、
「幸せって、何だろう?」
という会話さえありませんでした。
ましてや教職課程のなかで、そのような事を問う授業もありませんでした。
ただ、ヒトは真摯な生き方をしていれば、
「これはスゴイぞ !」
「それは、おまえのエゴだ !」
「これは、絶対、違うぞ !」
「深奥は解らないが、ここまでは間違いない、ついてこい !」
「援交?それは愛を踏みにじった行為だ、絶対いかんぞ !」
というのは必ず出てくる筈なのです。
大混乱した教師が、大混乱したその姿を子供に見せて、不調和な環境と感応させてどうしますか?
何のための教育ですか?
何のために、この地上に生まれたんですか?
今こそ、宇宙創生の歴史に立ち返って、根底を揺さぶり、根こそぎ教育を見直す必要があるのです。
この底辺あって始めて、教育論(認知論・関係論など)が生きてくるのです。
「引導」とは「引き導く」と書き、「教育」とは「教え育む」と書き、同義語と言ってもよいでしょう。
古くは、インド仏道修行における僧伽(サンガ)に学校の原型を見ることが出来
日本においては、聖徳太子の四聖院にその原型を見ることが出来ます。
正常なものと触れあう環境づくりを、今改めて見直さなければならない時にあるのです。
少なくとも、この文章を読んでいるあなたには
まず、何のために生きているのか?
この講座をもう一度最初から、自問しつつ読み返し、引導の一助にして頂きたいと思います。
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