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人の幸せを祈る 環境免疫学 講座

「祭り」とは、次元上昇の縮図である

 

「祭り」とは、辞書的には

1 神仏・祖先をまつること。

また、その儀式。特定の日を選んで、身を清め、供物をささげて祈願・感謝・慰霊などを行う。祭祀(さいし)。祭礼。

とある。別の視点から言えば、

日常(ケ)の世界を脱却して、非日常(ハレ)を仮想して清濁を円環運動させ、神仏と繋げる行事

とも言えます。図にまとめると下図の通りです。

以下この図について、事例を踏まえ、説明します。

このように「祭り」とは、日常の個々が創り上げている独自世界を仮想の時空間で混濁させる行事とも言えます。

また、この「祭り」には、

  ・「収縮」(陽)としての「神仏」との縦ラインと、

・「拡散」(陰)としての「大衆」との横ライン

とがうまく連携をとってこそ成立する行事と言ってよいのです。

したがって、「祭り」ということを考える場合、この事実を重々、理解して進める必要があるのです。

しかしながら、

「祭り」というものについて論議を重ねると、

「拡散」的側面(集客的側面)にのみ傾斜した「祭り」に終始するきらいがあるのです。

したがって、いくつかの感想を聞くと、

・「祭りの特色が出ていない」・「どこにでもある祭りには興味がない。」

・「もっと祭りの背景を重視すべき」・「地域の特性を出してほしい」・「誰のための祭りなのか」

といった意見が、全国的傾向となっているのです。

集客性に力点が置かれ、どこも同じような批判が出、同じような「祭り」に満たされてきている。

というのが実状です。

しかし、その地域に根づいた伝統なり歴史を何らかの形でイベントの中に網羅しなければ、

大衆の本当の意味での満足もないし、永続的な集客には至らなくなってきているというのが裏の事実です。

 

「祭り」とは祭祀である

そもそも日本古来より伝わる「祭り」とは、神事・祭祀であって、

決して集客により、経済活動の活性化を目的としたものではないのです。

私が住んでいる別府で言えば「温泉まつり」の歴史をみても、

「祭り」は明治43年、別府商業会(現、商工会議所)により「温泉市大売り出し」としてスタートし、

内容は専ら「神の恵み」を仰ぐものとして、

温泉への報恩感謝と観光にかかわる従業員への慰労がその内容でした。

後、大正8年、「温泉神社」が建立されるに至っては、

祭事を中心とし温泉への感謝祭りとしての体裁を整えていったのです。

温泉の豊かな恵み、あるいは豊泉を祈り、またその恵みに感謝するという行事のくり返しの中で、

市民は温泉観光の意義を確かめ、一段と強固な観光地別府への意識を育んできたのです。

このように、市民は「祭り」を通して感謝を捧げ、

地域の伝統を学び、そして守り、末代へと伝承していったのです。

「祭り」が単に、集客をのみ目的とした一過性のイベントに傾斜したとき、

それはどうしても、時代が変われば姿を変えなければならず、

愚かな輩は、調査研究とばかりに、その度に、全国のイベントを見て回り。

予算の都合「ミニ○○版」がせいぜい、ということになるのです。

さらに、悪いことに企画者にしてみれば、

それはそれで、よくやったと吹けば飛ぶような感動を固く胸にしまって自己陶酔するのです。

結局、独自性はありませんから

ごく限られた地域の集客性しかなく、それを今度は予算のせいにして、もっと予算があれば・・・・

と逃げ口上に走るわけです。

結局、数年たち、どの組織にもさして益しないことが明らかになると、

スポンサーは離れ、縮小または廃止されてしまう運命にある訳です。

そんな誇りもオリジナリティも無い「祭り」の繰り返しに、莫大な負担金は、

たゆむことなく、湯水の如く注がれ

それを、また、黙って見ている住民ほど哀れなものはない。という訳です。

 

 求心力・遠心力

 いくつかの調査結果を見てもわかるように、今、大衆の「気づき」が始まっています。

単なるイベントの連呼ではもう満足しきれなくなってきているのです。

ジェットコースターやバンジージャンプのような

ハラハラ・ドキドキ・ワクワクならば遊園地・テーマパークに行けばよい。

それよりも、むしろズシッと重く自己を改革してくれるような心底からの刺激を求め始めてきているのです。

その「気づき」が始まった時なのです。

決して「集客性」を避難してるのではありません。

「集客」とは、いわゆる伝承に通じるものであって「集客」によってこそ祭祀が成立することは事実です。

いわゆる、祭祀としての祭りの根幹・芯が成立すれば、

あとは千変万化いかように姿を変えようとも集客を目指さなければならない。

つまり、「伝統重視」というものと「集客・イベント化」というものは、

求心力と遠心力

の関係にあり、互いが相依相関の関係にある、ということです。

求心力とは、「祭り」の本質に向かって収縮、核としての「芯」を確立する力、陽気であり、

遠心力とは、「祭り」が外部に向かって膨張・拡散してゆく力、陰気です。

いわゆる、近年、「祭り」が往々にして遠心力にばかり突出し、求心力を置き忘れてきたのです。

求心、いわゆる「芯」のない祭りは、道理からいっても強烈な遠心力を発揮できず、

求心の力に相応した、遠心力しか発揮できない、

というのが法則です。

 

「芯」を守れ

世のあらゆるものに「芯」があります。これについては、

他項「中心性が開運の要(かなめ)でも解説した通りですが、

中心のあるところにこそ回転運動が生じ、直線とは違う終わりのない「永遠」という概念・法則が生じます。

それは原子核を回転する電子の運動といったミクロの世界から

太陽を中心に回転する惑星群、太陽系・銀河系といったマクロの世界まで、漏れるものはありません。

この基本が損なわれた時、それは破壊の道をたどるのです。

では、問題としている「祭り」の中心たる芯とはいかなるものでしょうか。

もちろん、その祭りを司る御神体です。

そして、御神体をまつるのが社(やしろ)、神社となっています。

とすれば、御神体・神社のない「祭り」とは、本来の祭りというにあたいしない。

もしくは「祭り」の崩れた状態、ということです。

 私の住む地域の「温泉祭り」についていえば、

大正8年に「御岳の権現」と「火男火売神社」の合祀により創建された

「温泉神社」がその役割を果たしてきました。

それは地域の鶴見山から蕩々と流れる地下水脈を象徴・管轄するものとして、

その2社が掲げられたのです。

残念ながら今は廃社となり、現在では、「八幡朝見神社」というところが、その役を果たしています。

したがって、今、先ず第一に取り組まなければならないのは、基本構造に帰ることであり、

可能なことならば、「温泉神社」を再建し、市民の報恩感謝の御柱として、

うちたてるということです。

この神社を中心として祭りが機能してこそ、「祭り」が「祭り」として、始動するのです。

いわゆる温泉祭りであれば、温泉の「芯」を確立する事こそ急務であり、いわゆる

「かくあるべし」

という根幹を根づかせることが大切なのです。

 

 愚か者は

 自己の属する組織のみの行く末にしか、

 発想の根拠を見出さない。

 賢い者は

 全てを生かすために 「かくあるべし」 という根拠を問う。

 時代に順応できる人間が素晴らしいのではない。

 人としてあるべき姿を問い、人の心を豊かにできる人が貴い。

 祭りのあるべき姿を問い、根幹を踏み外すことなく

 社会に潤いと「心の豊かさ」をもたらすことが必要なのです。

 

 天地最高の恵み、温泉  

 

 人はどんなに、その力の限りを尽くしても、天地大自然に

「生かされている」

という事実を否定することはできません。

 大地は草木を育み酸素を供給し、食物を実らせ、天からは光と雨と・・・・

その恵みは言葉に尽くせない程です。

この大自然が、ひとたび流れを変えた時、人はその前に何事もなし得ない無力さを実感します。

ささやかな小川でさえ増水すれば一瞬にして人命を奪うのです。

 別府という地もスッポリと「別府・島原地溝帯」と呼ばれる活断層上にあり、全国の活断層の1割に相当する200本の断層が集中している。別府・阿蘇・島原をつなぐラインを境に、九州は現在、南北に年間平均10ミリづつ引き裂かれており、九州が南北分断される傾向にある。海底音波調査によれば、活動歴からそろそろ動く時期にきている(大分大学、千田昇教授調査報告)という。いつ地変が起きてもおかしくない状況である。

 この天地大自然の恵みの中で、人類にとって最高の恵み、

なくても生きていけるというような贅沢な恵み、

それは、いうまでもなく、「温泉」です。

 しかし、近年の物質文明の豊かさは、この恵みを当然のこととして、錯覚させ

ガスや電気、そしてコンピュータ化によって簡単に水は暖められ・水量まで計測され、

ついには外出先から電話回線によって湯が張られ、入浴後は全自動にて浴室が掃除される・・・・・

何とも素晴らしい文明です。

それはそれでたたえられていいのです。

でも、そのことが、温泉という恵みに感謝することを忘れさせたとしたら、

その罪は大きいと言えるでしょう。

 

 大地への感謝もつゆ忘れ、

 先人の積み重ねた伝統・文化もつゆ忘れ

 カネ・カネ・カネの地域振興に明け暮れて

 己が心を問いただすこともなく、

 祀り事の意義・天地の恵みも理解できず

 その場、その場の町づくりにいそしみ、

 先祖伝来の恵みを当然のこととし

 気が付いた時には

 大地と共に沈んでいた。

 

では遅いということです。なぜ、このような状況が全国的に広がったのでしょうか?

いうまでもありません。

「祭り」の目的が、陰気(集客)・世間への迎合にばかり傾注し、

陽気(伝統)・守るべきものから離れていったからです。

 

そのためにも、皆さん1人1人が、まず地域の祭りに参加すること、

そして、

「祭りの芯」は何なのかをキチンと理解することです。

「祭り」は地域が、住民が、次元上昇するために

絶妙に、天が定めた行事であり、ヒーリングセッションです。

上図の通り、住んでいる地域の「祭り」に参加し、

泣き・笑い・怒り・共感し・お金を使い・・・・と血肉を踊らせ、心も体も解放することで、

地との共鳴性も生まれ、その共鳴性が「生」をバランス調整します。

思念と物質の進化システム

混在する生命現象と愛の関係

でも記した通り、人は攪拌・混在し、すり合わせる事で「癒し」の世界を産み出します。

しかし、天地自然の恩恵・神仏を忘れた生活をしてますよね。

しかし、本来の世界を、短期に仮想で実体験できるのが「祭り」そのものなのです。

 

人を集める為に「祭り」を利用し、経済循環しなければ意味がない、

とばかり発想する、腐れ切った行政や商工業者に任せて済む問題ではないのです。

さあ、ぜひともあなたもその事を理解し

住む地域の「お祭り」をカレンダーに記入し、

是非とも、子供を連れて住む地域の「祭り」に参加して下さい。

 

 

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