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心を込めた「祈心」こそ天に通ず

安部浩之作品No,0703244

 

現在でも。宗教系の学校においては「祈り」というものが教育内容に盛り込まれています。

私の知っている、あるキリスト系の保育園・幼稚園では、食前に

 

全てのものをお与え下さる神様、今いただく、この食べ物を祝福して下さい。

丈夫な体・強い心を創るために、何でも喜んでいただきます。

お家のお父さん・お母さん・先生、皆さん有難うございます。いただきます。

 

この祈り言葉を聞いた時にスゴイなと感心したしました。

しかし、それから何度か学校に通い、いろいろな「祈り」を聞き、気づいたのです。

この「祈り」はしない方がイイと・・・

とにかく、教師が祈りの文言を暗記させ、大きな声で発声するよう教え、徹底されているものの、

子供は、投げやりな大声で、ただ、おらんでいるだけ、

そこには全く心がこもっていない。先生にもこもっていないのです。

だから、むしろ心のない「祈り」は「祈り」を逆に空論化させ、誤解を生むので

ない方がイイとさえ感じたのでした。

それよりも、むしろ言葉は出なくても、例えば貧困にあえぐ子が

1個のおにぎりを前に、無言で感謝し無言で噛みしめることの方が、

ズッしりと重く、尊いに違いないのです。

例えば、上の写真をご覧下さい。

 

アフリカの子です。炎天下、まさに餓死寸前の姉が、1杯の水でさえ、

自分は、やせ細っても弟に水を与え、命の限り、心を尽くしているのです。

恵まれた状況の中で「あれキライ、これキライ」と我が儘を言い

食べ残しばかりしている日本の子がどんなに美しい言葉を並べても

この姉の愛念には、到底かなうものではないのです。

そこに「神様」という文言・言葉あろうがなかろうが

神様は心の内を先刻承知しているというのです。

・・・・・・

日本という、この恵まれた環境に生を受けた

ということは、どういう事かというと

恵まれていれば、いるほど、他の人を「祈る」心のゆとりが生じて然りということです。

ですから誠心で、嘘偽りない己の心を吐露し、

懺悔(反省)すべきはし、感謝と世界の平安を祈る

それこそが日本に求められる役割でもあるのです。

宗教ムード、プンプンで、しかも「神様・仏様」の言葉がなくても良心に従って思いを込めるのです。

ですから、電車のつり革を持って、一日を反省し、

「ああ、今日はあんな事を言って、あの人の心を傷つけた、わるかったな〜」

そう思うだけで、これも立派な懺悔であり、祈りなのです。

そういう時間を一瞬でもイイから持つ、ということはとても大切です。

別段、「ハイ !! 祈りの時間ですよ〜」と時間を設定しなくてもよいのです。

また、そのような「祈りの心」は「神様・仏様」の言葉を使わなくても、

指導の場においても、随所に活かすことができるのです。

具体的には、他項で事例もふくめて紹介したいと思いますが、

いずれにしても、「祈る心」ということを、生活の中で、また指導の中で

念頭に置いていただきたいと思います。

 

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