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  各種 「祈り・参拝」の極意

  

安部浩之作品No,080101
                     文・Design kohsi

  日常の 「祈り」

一切の動植物も鉱物も地球の環境を破壊していません。
ただ、ただ人間のみが、その分をわきまえず、ひたすら地球環境を破壊しているのです。
今こそ、人が人らしくあること、それはどういう事なのかを問う必要があるのです。
天が人間だけに付与した行為として、その頂点に位置するもの、それは「祈り」です。
では、その尊い「祈り」はどうあるべきなのか、まず、下図をご覧下さい。

懺悔と祈り

「懺悔と祈り」を三点構図の上から説明したものです。
全ての祈りの行為は「懺悔」から始まります。これは宗教・宗派を問わず、人の行為を貫通して成立する構図です。

例えば、キリスト教では、神の僕(しもべ)としての懺悔、仏教では、宗派を超えて読まれる「懺悔文」という経文があります。中心軸としての人は、必ず、この「懺悔」と「祈り」をセットとして成り立たせなければならないのです。

つまり、神前・仏前にして、罪や汚れをキチンと隠すことなく吐露する。そこで始めてゼロリセットされるのです。この懺悔の場では、一切の隠し事は許されません。神仏への 自分だけの独白です。自分が最も隠したいこと、見て見ぬふりをしてきた過去の行為や考えを、率直に言葉にするのです。

過去の悪事や悪習慣を存分に恥じ入り、
そして、それにもまして「命」を頂いている我を感謝の心」で結ぶのです。
そのステップをへて、ようよう「祈り」の段階に入るのです。
ここで大切なことは、「懺悔」が我が事であったのに対して、

「祈り」はあくまでも他者への「幸福」を祈る祈りに徹するということです。

・お金が貯まりますように・・・
・出世しますように・・・・
・宝くじが当たりますように・・・
・合格しますように・・・

というような個人の欲望は、エゴに基づくものであり、「我よし」です。これは「祈り」に値(あたい)せず、祈り本来の波長とは一致しません。天意にも叶いません。

神仏は時空を超えていますから、あなたの考えているような
 「個人的な願い事」
は先刻承知しているのです。
そういう事は言葉にして祈り事にする必要はならず、
神仏の軽視・冒涜(ぼうとく)となります。
あくまでも、
「祈り」は他者への「幸せ」を祈る
に徹する事です。天が聞き入れる「祈り事」というのは、ここにあるのです。
「他者」といっても、最初は、感情移入しやすいように、身近な人・家族でも構いません、
しかし、大切なことは、必ず最後には、 形だけでも

・世界中の人が幸せに暮らせますように・・・

と、世界の平和に心を注ぐ事です。

可能であれば、毎日、1分でも自省の意味も込めて「祈り」の時間を持つことが好ましいのです。
毎日出来ない。そういう時間は取れないという方がいれば、
例えば、眠りにつく床の中で・・・とか、帰りの電車の中でとか移動中でも構いません。
このように時間を捻出できないか工夫してみることは必要です。
ただ、年末年始やお盆、諸行事など、神仏を前にするような事があれば、ぜひとも懺悔から始まる祈りを実践して頂きたいと思います。
ぜひとも、自身の懺悔とともに、誠心で他者の幸せのために祈りを捧げてください。
そういう祈りは、必ず天に通じます。 
家族のために、仕事に悩んでいる友人のために、病院で苦しんでいる知人のために、
・・・・・恵みがありますように、と・・・・

仏前・神前が襟を正しやすいですが、難しければどこでも構いません。
生活のどこかに祈りの時間を捻出されることをお勧めします。

  神社参りの極意

上記の「日常の祈り」が基本であり、大切です。
普段は神仏の事などは関係なし、困った時、欲望を満たしたい時だけ神仏にすがる。
これでは、神仏が支援しようにも、法則的に支援できないのです。

ただ、年頭参拝など、節目に産土(うぶすな)神社に参る事も、
改めて意を正す
という意味からは大切な事ではあります。そこで、神社参りの基本を記します。

 

 

 

 

 

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