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「癒し」というカルマ・「宗教」というカルマ

 

安部浩之作品No,07327

カルマ」という言葉があります。

カルマとは、もともとはサンスクリット語で「行為」という意味ですが、日本では「業」という言葉で解釈されています。

因縁生起の法により、執着する想念と行為による悪循環のことを意味します。

人の魂にカルマが残る限り、輪廻から解放されないということです。

これは、エゴ(我欲)と深く係わっています。

本来、全ては通じ合い、地球とも動植物とも通じ合っている人間でありながら、

了見が狭く、独立した存在のように錯覚してしまう。

「私が良ければ・・・」

というエゴ(我欲)が生まれてきます。

このエゴは必然的に精神性を無視して発生する観念ですから、

なにを基準に物事を判断するかというと

「物・お金」

です。心までお金で買える。というエゴに満ちています。

一方、今、多くのヒーリングやセラピー、イメージトレーニングなどが横行していますが、

このような精神的な行為が

「己の我欲を満足させるため」

にだけ終始してしまうと

逆に、その行為がカルマとして残るということも理解しておかなければなりません。

何かスピリチュアルな部分に係わっていると

そのことで、

「他人の知らない世界を知っている」

これも1つの我欲であり、そこから新たなカルマを子々孫々に残してしまうということです。

真理への探求心は、とても大切なことです。

宗教的なものも、科学的なものも、それら全て、強烈な探求心や問題を遡及することで

人が賢くなり、次ぎのステージへと進んでいきます。

エネルギー値も高まり、高次の世界に肉迫するようになります。

しかし、そこに真心がなければ、逆に大きなエネルギーのカルマになってしまうのです。

時として、霊能力的なことを求め、その世界に一喜一憂している人がいますが、

それは、これまで知らない世界だっただけにサプライズを生みます。

そのサプライズに惑わされ、何か事を解決した、解き明かしたような錯覚に陥ってしまうのです。

つまり「霊能力よりも人間力」の方が大切だということです。

 

「求める、満たしたい」

という発想から

「与える、他を満たしたい」

という発想へのチャンネルへ転換していかなければなりません。

だからこそ、日々の真心を込めた行いが、とてつもなく貴いということです。

 

 

さらに、注意すべきは

「与える」ということを開運のツールにしない

ということです。

今、世間でそういう場面があまりに多いのです。

全て、自己開運のために、「ありがとう」を言う・挨拶をする・「与える」という気持ちを持つ

その行為自体は賞賛されるべきなのに

その行為をする人の本心が自己保存の本能に傾斜していると

その域を出れなくなってしまうのです。

こういう人が、物質的な充足を得ようとするとエステや癒し系ショップに行く。

こういう人が、心的な充足を得ようとすると、各種セラピーや宗教という方向に行く。

こうして、また新たな、「癒し」というカルマ・「宗教」というカルマを生み出していくのです。

つまり、

本気で自分の得を考えないで「ありがとう」を言った時と

自己の開運のために「ありがとう」を言った時は

格段の差があるということです。

禅の世界では、「・・・・の為にする座禅」というものを一刀両断していきます。

本来そうあるべきなのです。

ですから、最初は形からでも構いません。

しかし、その先に、何の見返りも求めない心の境地があることを理解しておいて下さい。

理解するだけでも、大きな違いがあります。

 

仕事や家事は勿論、家族との会話や友人との会話にも、それがどんな小さな事でも

真心を込めること

これは、どんなヒーリングやイメージトレーニングよりも貴い命の表現なのです。

自分にエゴがあるように、他人にもエゴがある。

ここで競って、己の欲望を先に・・・・

ではなく、その相手の願いを満足させるべく、真心を込めて、力を注ぐ、祈る。

見返りを求めない、その真心が通じて、相手の願いが充足され、歓ぶ。

その歓びをまた共有して歓ぶ。

重要なのは、

相手の願いがエゴから出たものであっても

願いが叶った時に、私心なく心から「歓びを共有」してあげる

すると、どうなると思いますか?

相手の不純なエゴをも昇華させてしまうのです。

これこそ、秘法というに値する現象界のルールなのです。

この小さなサイクルを

「横には伝播させ、縦には伝承していく」

これこそ地球アセンション(次元上昇)のあるべき姿なのです。

 

難しいことではありません。

ヨタヨタ、フラフラ歩くお婆ちゃんを、遠くからでも見たら

「お婆ちゃんっ、足もと、気をつけてよ、急がずゆっくりねー」

と、遠くからでも、私心なく念じる。そこから始まるのです。

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