もう、数週間も前の出来事ですが、
私の頭の中で、事あるごとに思い起こされる光景があります。
以下の光景です。
名前はあやねという小学校1年生の娘です。
夏休みになったので、玄関の掃除を担当させました。
箒(ほうき)で掃(は)くだけでなく、
靴を全部出して、タイルを濡れ雑巾拭きすることを教えました。
いつも丁寧な仕上がりに、私も満足していました。
そんな、ある日、あやねが掃除の準備をしている光景を目にし、ビックリしたのです。
それが上の絵です。
朝起きて、着替えを済ませた後の作業です。
ナント
取っ手のないバケツに水をなみなみ入れ、
得意満面にバケツを抱え込むようにして運んでいるのです。
当然、着替えたばかりの服の前は、ほとんどビショビショです。
そこで、とっさに私の言葉がありました。
「コラッ ! 服がビショビショ、水を見て運べっ ! 着替えてこい !」
それはもう、子供がビックリするくらいの大声で怒鳴ったのです。
子供は泣きながら、服を着替えに家の中に入って行き、出てきませんでした。
なぜか、子供はそれから玄関の掃除を嫌がるようになりました。
聞くと
「そ〜じぃ むつかしい〜」
私が我に帰ったのは、そのスグ後でした。
子供は何も悪いことをしていない。
子供はただ、掃除をしようとバケツに水を入れて運んでいた。
ただ、要領がつかめずに、水を上手く運べなかった。
それだけなのです。そこには悪意は全くないのです。
それどころか、思えば
要領は得なかったけど、重いバケツを運ぶその姿は、何とけなげな姿だったろう。
要領は得なかったけど、バケツを運んでいる、あの得意満面の顔は、何と輝いていたろう。
と
しかし、そこには、「また洗濯だ」という親の浅はかな料簡しか無かったのです。
ましてや、「育てる」という発想は微塵もありません。
子供の視点に立つことが大切だと主張しながら、
とっさに親の射程でのみ子供を裁いているのです。
この体験を基に、公園や家庭での、親の姿を見つめ直してみると
あるわ、あるわ・・・・
「キタナイッ ! ばい菌が一杯なのよっ ヤメナサイッ !」
「時計みなさい ! ハヤクシナサイッ !」
「ダメッて言ったら ! ダメなの !」・・・
子供はこうして、叱られて、叱られて
恐れや不安といったマイナスイメージと共に
単一な大人の思考回路となる軌道に、ただ、ただ、はめ込まれ成長していくのです。
参天養育法
全てに通じていることですが
まず、相手の中に入る(同調する)それが鉄則です。
異質の混在を繋(つな)ぐには、その手法しかない。
ということです。
そして、ポイントは、
目的を基点(杖点)として
陽(上)は陰(下)を理解しようとする
陰(下)は陽(上)を理解しようとする
この相互交流が「繋ぐ」という結果を生む。
ということです。
これまで、様々なカウンセリングや療法が説かれても、
この3点を網羅した手法が無かったのです。だから、一過性の療法に終始していたのです。
今、参天(三点)蟻道の法則によるセラピー療法・生活指導が求められているのです。
では、私のとっさの叱咤は間違っていたのか?
全ての学説が「そうだ、間違っている」と言うでしょう。
いいえ、これでいいのです。
要は、この後のサポートです。
1, あやねちゃん、お家が綺麗になると気持ちイイね (目的の確認)
2, あやねちゃん、綺麗になったネ 今日もありがとう (相手の中に入る)
3, でもね、何で叱られたんだろう? (相手がこちらに入るように導く)
この3点が伝わればOKなのです。
この時始めて、「繋がる」という現象が起こるのです。
このどれが外れても、問題が発生します。
1が抜ければ、「何で掃除なんかしなきゃいけないの?」となるし、
2が抜ければ、「やるだけ損じゃん」となるし
3があるから、「そうか、綺麗になるのが目的なんだから服を汚しちゃ、だめよね」
と展開していくのです。
これは、子育てにのみ通用するのではありません。
これをサンプルに、上司部下の問題・離婚問題と、いろいろな人間関係にあてはめてみて下さい。
人間関係や指導の面で、上手くいっていない時、必ずどれかが抜け落ちているのです。
1つでも抜けると、実はアドバイスがアドバイスにならない、指導が指導にならないのです。
このことを理解し、転用していく癖がつくと
人生の様々な問題が解決されていく、その妙を実感されることと思います。
※ 現在、参天蟻道の法則に則った「参天養育法」のテキストを作成中です。起こりうる事例をパターン化して、即効的に判断できるように仕上げたいと思っています。乞うご期待
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