人の幸せを祈る
 
長所を見つめると、優しさが双方向で動き出す
 

「Merit Book」より

人には、良い面もあれば、悪い面もある。

例え、極悪非道と言われた人も、使命と役割を「輝き(長所)」として持っている。

逆に、どんな素晴らしい人も、どこかおっちょこちょいだったり、言葉にトゲがあったり、

完全な人はいません。

なぜなら、因果律により、100%良い・100%悪い、という人はこの世に生まれていないからです。

別の言い方をすれば、この3次元空間は、「不完全な人の集まり」だという事です。

不完全だとすると?

そうです、どちらにも転ぶ事が出来る。

だから、「どこで、人と人は連鎖し合うのか、作用し合うのか」という事が問われるのです。

 

簡単に書きましたが、この発想は、古くはナーガルジュナ(龍樹・naagaarjuna)(wiki)の

中観思想(『中論』に詳しい)、天台大師智の『摩訶止観』(wiki) に類似の発想を見ることが出来ます。

おそらく、「空・仮・中」の三諦止観、三諦円融論として、完全体系化された「止観」の視点は、

その終着に位置するでしょう。下記 注1

つまり、

 ・「作用」を無視すれば「一切は空」となるし、

 ・「作用」を見つめれば「一切は仮」となるのです。

このバランスを、ラディカルに現実に持ち込んだのが龍樹に始まる「中観」、そして

智で体系化される「止観」となる訳です。難しくなりますので、ここでは控えますが、

             (すでに提案のメリットノートもこの「中観と止観」の発想より生まれたものです。)

いわゆる、人も、物も、形は見えないけれども、そこには、方向性(ベクトル)を内包した「作用」がある。

作用が動き出したときが「はたらき」となるのです。

身近な例で説明しましょう。

私事ですが、

3ヶ月ほど前、散歩をしていると、道路端に、可愛らしい小さな花を咲かせた雑草がありました。

私は丁寧に、根っこから抜いて持ち帰り、小鉢に植え、テーブルの上に飾りました。

花開いては、芽吹きを繰り返し、3ヶ月間、ディスプレイの横で、私の心を和(なご)ませてくれました。

ただ、常に花開いていた訳ではありません。花の無い時も、蕾(つぼみ)の時もありました。

でも、その蕾を見るだけで、そこにやがて花開く期待感にワクワクし、

蕾もなければ、「今は土の中で、栄養を補給し、着々と準備してるんだな」と同様にワクワクする。

ここです。ここが「作用に気づく」・「長所に気づく」ということです。

気づくということは、思念が送られる、ということでもありますから、

雑草は、頑張って、いつまでも期待に応えてくれようとするのです。

人に出会っては、

 ・ 一瞬の「笑顔」に、その人の、目に見えない「優しさ」を感じ

 ・ 小さい声に「落ち着き・冷静さ」を感じ、

 ・ 大きな声に「心意気・力強さ」を感じ

と、その人の長所という作用に気づくと、長所での双方向連鎖が始まるのです。

ここから生まれた人の「輪」は本物です。

人の輪が、3点連鎖→4点連鎖となり、人の「和」となるでしょう。

一皮むけば、利権でつながった輪は、沢山あります。

当然の事ですが、利権が無くなると、こういう輪は、見事に離散します。

逆に言えば、例え、そういう輪でも、人の長所を見つめる視点を注入する事で、

今までにない「係わり」が動き出すでしょう。

人間関係は、「どこを見つめたか」という、あなたの「心の展開」です。

あなたの心が創り出した係わりのオリジナルスタイルです。

あなたは、その人のどこを見つめていますか?

ぜひ、「身近な人の輝き」をこそ見つめて下さい。宜しくお願いします。

 

注1
『摩訶止観』中、一般に「円頓章」と言われる部分に
「円頓者。初縁実相。造境即中。無不真実。
繋縁法界。一念法界。一色一香。無非中道。己界及仏界。衆生界亦然。陰入皆如。
無苦可捨。無明塵労。即是菩提。無集可断。辺邪皆中正。無道可修。生死即涅槃。無滅可証。
無苦無集。故無世間。無道無滅。故無出世間。純一実相。実相外。更無別法。法性寂然名止。
寂而常照名観。雖言初後。無二無別。是名円頓止観。
当知身土 一念三千 故成道時 称此本理 一身一念 遍於法界

(読み下し)円頓とは、初めより実相を縁ず、境に造るにすなはち中(道)にして、真実ならざることなし。縁を法界に繋け、念を法界に一す、一色一香も中道にあらざることなし。己界および仏界、衆生界もまたしかり。陰入みな如なれば苦の捨つべきなく、無明塵労即ちこれ菩提なれば集の断ずべきなく、辺邪みな中正なれば道の修すべきなく、生死即ち涅槃なれば滅の証すべきなし。苦なく集なきが故に世間なく、道なく滅なきが故に出世間なし。純ら一実相にして実相のほかさらに別の法なし。法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後をいうといえども二なく別なし。これを円頓止観と名づく」
                                ・『摩訶止観』 上・下 関口真大 校注 岩波書店 参照

とあり、三諦論をベースに止観を展開する。特に、空・仮・中(一心三観)の三諦をそれぞれ独立の真理(隔歴(きゃくりゃく)三諦)とみるのでなく,一諦のうちに他の二諦をそなえ,差別なく3者が融合しているとする。

空性に傾斜すれば、
「何もしない、こざかしい知恵で何かをしようとするから毒なるフィルターを生み出し神聖を隠し、カルマを生み出す。だから、手放せ」という方向を濃厚にし、
仮性に傾斜すれば、
「全ては縁起で仮のもの、私達の地球空間は幻であり、因果を遡及せよ」
という方向を濃厚にする。世のヒーリング系は、ほぼこの「空・仮」両極のいずれかに分類される。ここに言語レトリックを突破し「作用→はたらき」というカテゴリーを注入したナーガールジュナの視点は卓見である。
特に、ナーガールジュナ(龍樹)は、
  一切の知覚が寂滅し、戯論が寂滅して吉祥なり。仏は何処にも誰にも如何なる方も説きたまわず。」
という空不可得こそ、私達が自覚すべき勝義諦(大切な定理)とし、さらに、その勝義諦は世俗に対するものではなく、世俗に即した中道の真実だとする。瑜伽行派の空論に対し、龍樹の空論は、最後まで世俗を否定し去らず、むしろ世俗の中にこそ空性を見いだし、行為を持って実証すべきとした。

 

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