人の幸せを祈る
 
罰そうじ? そうじを罰にしてはいけない
 

安部浩之作品No,110304
                     文,Kohsi・photo.DAJ

かつて、私が高校教員をしていた頃、「罰そうじ」というのがありました。

どの先生も、生徒が問題を起こすと、何のためらいもなく、放課後、「罰そうじ」を命じるのです。

「罰そうじ」

始めて聞く言葉ではないと思います。でも、おかしいと思いませんか?そうです、教師の意識に「そうじ」

は苦痛、だから罰の対象とする。という単純な構図があるのです。

「苦痛なるそうじ」を命じられた生徒は「そうじ」を、どう解釈するでしょうか?

 そうじ=苦痛 

 結局 ・ そうじは苦痛だから、悪い事をしたら、させられる。

     ・ 掃除は自主的にするものではなく、させられるもの

     ・ 苦痛はなるべく避けたい

      ・ しなくて済むものなら、その方がイイ

という妙な流れを生んでしまうのです。

学校では、片方では、

  ・自分達の学ぶ場を掃除をするのは、人として、当たり前の事

という理屈で「そうじ」を教育活動の一環とし、片方では

  ・罰則の対象としている

という、何とも不思議な構図を作っているのです。大義名分・公平を装いながら毒を注入していること

に気づいて下さい。

先に記した道元禅師の「ただ黙々と、皆の歓びを親心をもって行じる。」とは、ほど遠い世界が作り

出されているのです。

 

そもそも、「そうじ」とは、生活の中で、自然と出てくる行為です。

家や車から机も鉛筆もパソコンも本も消しゴムと言った日用品まで、全て役割を持って、そこに成立

しています。それは高額なモノかもしれません。それは100円ショップの安価なモノかもしれません。

しかし、その1つ1つが、全て私達の生活に欠かせないものです。

例えば今、私の目の前にステンレス製のハサミがあります。ステンレスも柄の部分も実際は全て

自然の資源を、多くの手がかかって加工して出来たものです。1を見て、その背後にある10を知れば

当然、そこに「感謝の気持ち」が湧いてきます。

そういう想いが募ると、自ずと、

  ・汚れていれば、磨いてあげたくなる。

  ・あるべき位置へ返したくなる。

  ・今日も無事、この教室で勉強(仕事)が出来たのだと思うと、

    「ありがとう」という気持ちが起き、キチンと整理したくなる。

という行為は自然と生まれてくるものなのです。

 

こういう事を本気で情熱的に語らずに、「掃除」を単純に人としての義務にし、ついには「罰掃除」にし

てしまってはいけません。その説得力・感化力を持たないのは、そういう生き方をしていないからです。

これは教師に限った事ではありません。家庭においても起こりうる事です。

親も教師も上司も、先に行く者は、どうぞ、上記した通り、掃除から感謝への流れを、掃除の要(かなめ)

として情熱的に語って下さい。

決して、掃除を義務や罰の対象とはしないで下さい。宜しくお願いします。

 

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