人の幸せを祈る

そうじという神行(しんぎょう)へ  

 

安部浩之作品No,110304
                         文・Photo,Kohsi

「そうじ」とは毎日の「心のお清め」だと記しました。これは第一段階です。次ぎのステップは「神行」です。

この「神行」の域に達すると、掃除はいよいよ楽しくなります。

いわゆる

 ● 陰 → お清め → 心を清め、心を整理整頓する。 → 受動的

 ● 陽 → 神 行  → 清濁を超え、他の幸せを願う → 能動的

です。この陰陽を併せ持つ掃除が「神行」となります。

 

机のふき掃除する時は、「机への感謝」と共に、心を注ぐ

「今日1日、この机で、多くの人のお役に立つ仕事が出来ますように」

他人の机をふくときも同様です。イヤな上司の机でも

「今日1日、この机で仕事をする○○さんが笑顔でいますように」

そういう風に心を注ぐのです。

ふき掃除は水を使います。水は敏感に心を伝達し、場をその気で満たします。

そういう思いの集積が、家族から会社→地域へと穏やかな気で包み、良き巡りに通じる渦を創出して

いきます。そこに、好きな人・嫌いな人、汚いもの・キレイなもの、清・濁というような、人間の浅はかな

了見は不要です。

 

先日、こんな場面を目にし、驚きました。

あるミーティングの設営で、3名の女性が椅子と長机をコの字に並べ替えていました。

ほんの5.6分ほどでした。一通り設営が終わって、開始まで時間があったのですが

1人の女性が思いついたように、濡れフキンで、机上のふき掃除を始めたのです。

その始終を見ていましたが、見事なふき掃除でした。場の気が一気に変わったのです。

ちょうど私の提唱する「心を込める掃除」(三点そうじ)を実践してくれている女性で、

机の門(かど)→中→門(かど)の順で拭き、見事な手の動かし・・・・

その動きは、誰が見ても心がこもっている。

心の無いひとは、サッササーッと事務的に拭きます。だいたい隅(すみ)を拭き残します。

彼女は、所作はゆっくりではあっても、実に美しい。まるで茶道のお手前を見るようでした。

もうこれは、雑用なんてものではありません。

これこそ神業(かみわざ)であり、「そうじ」という神行(しんぎょう)です。

ここまでくるとホンモノだと思いました。

 

禅では「そうじ」(「掃除」(掃(は)き除(のぞ)く)とは言いません。

「作務(さむ)」 = 務めを作(な)す と言います。

道元禅師の言葉にの中に、

「事を作(な)し、務めを作(な)すの時節は、喜心・老心・大心を保持すべき者なり」『典座教訓』(2)

というのがあります。掃除の心得といっても良いでしょう。

 ・喜心とは、喜びをもってする心。

 ・老心とは、親が子を思う心。

 ・大心とは、清濁(せいだく)に固執しない心。

です。この3点、まさに、そうじの勘どころを得た言葉です。もっと簡単に言えば

掃除は、楽しく・親心で・清濁を超えて」ということです。

最悪なのは「オレは、みんなの為に、掃除してるんだゾ」という思いは、逆にエゴを助長させます。

当たり前を当たり前とも思わず、ただ黙々と、皆の歓びを親心をもって行じる。

これこそ、開運にふさわしい掃除の極意です。

 

ところが、今は「そうじブーム」とかで、そうじをすると

  ・開運するだとか

   ・プラス思考で・・・・だとか

   ・ネガティブな気を払い・・・・だとか

に満ちあふれているのです。しまいには風水とそうじをくっつけて開運本にしているものもあります。

全てエゴ(自我)、我良しの発想です。掃除に、このようなエゴを介入させてはいけません。

結果として開運されていた、で良しとするのです。開運を求める「そうじ」に開運は来ないのです。

順番を間違えると、そこに雲泥の差が生じます。

私の運が良くなりますように、良いものに満たされますように、お金が貯まりますように・・・

そういう想いの「そうじ」こそ、循環の理に反しますから邪気を寄せていくのです。

「そうじ」を我よしの開運ツールにしない、返りを求めることなく

好き嫌いを超え、他の幸せを願うそうじ」。

他の幸せを願うという「巡り」に持ち込むのです。

どうぞ、あなたの掃除をこのステップに高めて下さい。

開運そうじをしてきた方も、この掃除にシフトして下さい。この掃除こそ、本当の意味で

あ〜スッキリした〜程度の掃除から、運を開くまでのポテンシャルの高い掃除となるのです。

 

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