介護という感謝行 | |
高齢化する社会の中で、「老老介護・介護退職・訪問介護・・・」など、 介護という言葉が溢れ、そこから「介護疲労・介護自殺」といった様々な問題も生まれています。 しかし、社会は、ある時点から、いきなり「高齢化・介護社会・介護期」が始まった訳ではありません。 ジワジワと次第とそういう社会状況になったのです。 これは個人レベルにおいても同様であり、「介護」を日常生活から切り離して発想すると「介護」は 不孝でやっかいな出来事になります。 さて、先日、こういう出来事がありました。 私は、ある店の駐車場に車を止めようとバックしている時、パーンというとても大きな音がしました。 一瞬「ぶつけたか?」と思ったのですが、降りて見てみると、ガラスの空き瓶をタイヤが踏みつけ、 そこには、鋭利なガラス片が散乱していました。 「マナーのない奴だ、こんなところに瓶を置いて〜」 と、瓶を置き去りにした、見えない、その人に不快と怒りを感じました。 でも、そのあとフッと感じたのです。 「この鋭利な破片に子供が手をついて、血だらけで〜・・・・おお〜」 そう思うと自然とガラスの片付けに体が動いていました。 1つ1つ、時間をかけて、両手で地面をなぞりながら、丁寧に拾いました。 周囲の怪訝な目がそこにありました。でも、片付けながら、こうも思ったのです。 「思えば、ラッキーな出来事だな〜、 誰か知らないけど、ここにガラス瓶を置きっぱなしにするから、 こうして、人の役にたつ事ができるんだよな〜、アリガタイ、カンシャ・カンシャ!」 片付け終えて、運転席に座った私の心は、先ほどの不快とは一転して、 不思議と、とても 「晴れやか」 なものとなりました。 もし、不快の状態のまま、片付けもせずにいたら、そこには怒りにも近い不快だけを残したでしょう。 しかし、処理という行動を通して、むしろ安らぎさえ感じたわけです。 そこで、改めて、こういう出来事の最悪を考えてみました。 ・私が怒りに満たされる→空間に怒りの念波が残る→怒りは相手に伝播する→ 相手は怒りの念を受け、相応のものを引き寄せる→誰かがケガをする→怒る→怒りの連鎖 しかし、今回は ・私が感謝する→空間に感謝の念波が残る→感謝は相手に伝播する→ 相手は感謝の念を引き寄せ相応の世界を展開する→誰もケガをしない→感謝の連鎖 となるのです。チョットしたマナー不足の一事が、その対応如何で、かくも大きな差を生み出します。 介護もこの延長線上にあります。 つまり、この発想で、自宅にいる、不自由な両親を見つめる事が出来たなら、 「仕事が出来ない、自分の時間がない、臭い、汚い、疲れた・・・・あー、もう、またか〜」 ではなく 「こうやって、親は、私を育ててくれたんだよな〜、 今度は、私がお役に立てるんだな〜、カンシャ、カンシャ」 と笑顔が生まれ、介護される側も気持ちよくなります。 気持ちが良くなれば、親から「ありがとう」の言葉も生まれ、免疫力も上がります。 そして、心の底から「いつまでも元気で、長生きしてね」となります。 同じ事をするにも、「感謝の心ある介護」と「心ない介護」では、 施す側も受ける側も、雲泥の差が生じます。 そう考えると、介護とは「感謝行」である、「感謝行」という、修行の場を頂いているということでもあります。 さらに、事態はこれに止まりません。 「感謝」は悪因悪果を加速度的に消す力をもっていますから、 不思議と、病人が快癒したり、介護支援者が現れたりするのです。 こうしてみると、家庭であれ、仕事であれ、介護に直面している人は幸せです。 他項(「本当に必要な人は、すでにあなたの近くにいる」)でも記した通り、 天は必要な環境を既に整えてくれていますから、あなたが、あなたの両親を介護する立場にある。 介護・看護の職場に巡り合わせた。というのは、 むしろ、介護という感謝行を通して、社会貢献の大切な一躍を担っている。ということでもあります。 ぜひ、「感謝の思い」で、介護に取り組まれて下さい。 宜しくお願いします。
最後に、関連して、樋口了一氏の「手紙」を紹介いたします。ご覧下さい。
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