人の幸せを祈る
 
介護という感謝行
 

安部浩之作品No.090514
                                         文・Phot,Kohsi

 

高齢化する社会の中で、「老老介護・介護退職・訪問介護・・・」など、

介護という言葉が溢れ、そこから「介護疲労・介護自殺」といった様々な問題も生まれています。

しかし、社会は、ある時点から、いきなり「高齢化・介護社会・介護期」が始まった訳ではありません。

ジワジワと次第とそういう社会状況になったのです。

これは個人レベルにおいても同様であり、「介護」を日常生活から切り離して発想すると「介護」は

不孝でやっかいな出来事になります。


さて、先日、こういう出来事がありました。

私は、ある店の駐車場に車を止めようとバックしている時、パーンというとても大きな音がしました。

一瞬「ぶつけたか?」と思ったのですが、降りて見てみると、ガラスの空き瓶をタイヤが踏みつけ、

そこには、鋭利なガラス片が散乱していました。

「マナーのない奴だ、こんなところに瓶を置いて〜」

と、瓶を置き去りにした、見えない、その人に不快と怒りを感じました。

でも、そのあとフッと感じたのです。

「この鋭利な破片に子供が手をついて、血だらけで〜・・・・おお〜」

そう思うと自然とガラスの片付けに体が動いていました。

1つ1つ、時間をかけて、両手で地面をなぞりながら、丁寧に拾いました。

周囲の怪訝な目がそこにありました。でも、片付けながら、こうも思ったのです。

   「思えば、ラッキーな出来事だな〜、

   誰か知らないけど、ここにガラス瓶を置きっぱなしにするから、

   こうして、人の役にたつ事ができるんだよな〜、アリガタイ、カンシャ・カンシャ!」

片付け終えて、運転席に座った私の心は、先ほどの不快とは一転して、

不思議と、とても 「晴れやか」 なものとなりました。

もし、不快の状態のまま、片付けもせずにいたら、そこには怒りにも近い不快だけを残したでしょう。

しかし、処理という行動を通して、むしろ安らぎさえ感じたわけです。

そこで、改めて、こういう出来事の最悪を考えてみました。

    ・私が怒りに満たされる→空間に怒りの念波が残る→怒りは相手に伝播する→

     相手は怒りの念を受け、相応のものを引き寄せる→誰かがケガをする→怒る→怒りの連鎖

しかし、今回は

    ・私が感謝する→空間に感謝の念波が残る→感謝は相手に伝播する→

     相手は感謝の念を引き寄せ相応の世界を展開する→誰もケガをしない→感謝の連鎖

となるのです。チョットしたマナー不足の一事が、その対応如何で、かくも大きな差を生み出します。 

介護もこの延長線上にあります。

つまり、この発想で、自宅にいる、不自由な両親を見つめる事が出来たなら、

「仕事が出来ない、自分の時間がない、臭い、汚い、疲れた・・・・あー、もう、またか〜」

ではなく

「こうやって、親は、私を育ててくれたんだよな〜、

     今度は、私がお役に立てるんだな〜、カンシャ、カンシャ」

と笑顔が生まれ、介護される側も気持ちよくなります。

気持ちが良くなれば、親から「ありがとう」の言葉も生まれ、免疫力も上がります。

そして、心の底から「いつまでも元気で、長生きしてね」となります。

同じ事をするにも、「感謝の心ある介護」と「心ない介護」では、

施す側も受ける側も、雲泥の差が生じます。

そう考えると、介護とは「感謝行」である、「感謝行」という、修行の場を頂いているということでもあります。

さらに、事態はこれに止まりません。

「感謝」は悪因悪果を加速度的に消す力をもっていますから、

不思議と、病人が快癒したり、介護支援者が現れたりするのです。

こうしてみると、家庭であれ、仕事であれ、介護に直面している人は幸せです。

他項(「本当に必要な人は、すでにあなたの近くにいる」)でも記した通り、

天は必要な環境を既に整えてくれていますから、あなたが、あなたの両親を介護する立場にある。

介護・看護の職場に巡り合わせた。というのは、

むしろ、介護という感謝行を通して、社会貢献の大切な一躍を担っている。ということでもあります。

ぜひ、「感謝の思い」で、介護に取り組まれて下さい。

宜しくお願いします。

 

最後に、関連して、樋口了一氏の「手紙」を紹介いたします。ご覧下さい。

 

歌詞はココ

 

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