文/phot,Kohsi
ある村に、我論と紫恩という
修行を終えた2人の僧侶がいました。
我論は、話もうまく勤勉で、多くの人の信頼を得ていました。
そして
何人にも宿っている、人の神性を信じ、
もっぱら
心の曇りを手放す事に意識を注ぎました。
そのためには思念の調整力を必要とし、
極めれば、極めるほどに
良かれ?
と思うことも、
所詮、それは
「我欲の産物」
であることに気づき・・・
心は、いよいよ純度を高めていくのでした。
また、唯識論・倶舎論・・・など、仏教教理に秀でていた彼は
多くの人に講義をし、我論の指導のもと、
瞑想で神秘体験した人々は、さらに人を呼び・・・
日に日に、多くの人が集うようになっていました。
一方
同じく僧の紫恩は、学問が苦手で
東奔西走、
もっぱら農作業の手伝いや橋梁の補修などに追われる毎日でした。
そんな折り
四季の恵みをふんだんに受けていた、この穏やかな村に・・・
かつてない疫病が蔓延し
飢饉と言えるほどの状況が発生しました。
持病のあった者・子供・年寄り、など弱い者から次々と発病し、
ほとんどの村人は、支えとなるものを失いました。
そして、途方にくれ、藁(わら)をもつかむ思いで、
多くの人は、我論のもとに集いました。
そして、1人1人は、
そういう中であればこそ
試される時だと
瞑想や神秘体験を深め
教義を学んでいきました。
そんなある日、紫恩が道を歩いていると
「んーんー、うー」
と人が苦しむ声が聞こえてきます。
音をたどると1件の家でした。
「んーんー」
中から、苦しむ声が聞こえてきます。
おそるおそる、のぞき込むと、お婆さんが熱を出して苦しんでいるではありませんか。
紫恩は、まるで自分が病にかかっているかのように
「苦しな〜、苦しいな〜」
と繰り返しながらも、話を聞きました。
話によると
「家人は我論のところへ行き、
もう何日も帰ってこないのだ」
という事でした。
紫恩は、とにかく、額を冷やし、おかゆをつくり、久しく看病しました。
そして、そんな家がこの村に沢山あることを知り、
行く家々で、まるで口癖のように
「苦しいな〜、苦しいな〜」
と言って、看病と薬草探しに明け暮れる毎日となりました。
疫病に命を落とす者
看病の甲斐あって、疫病から回復する者
様々でしたが、およそ半数の人が生き残り、疫病は鎮まりました。
それから、避難していた村人も戻り、
再び、村づくりが始まりました。
数年たち
かつての疫病飢饉を忘れかけていた矢先
再び、疫病が村を襲いました。
数年前と同様に
村人たちは、まるで避難するかのように
我論の下へ集いました。
ある日、
我論は集う人たちを集めて言いました。
「村は、また大変な時であるが、こういう時にこそ、
心を求め、学びを深める皆さんの志を素晴らしいと思います。
ご苦労様です。
さて、昨晩、気付いた事ですが、どうやら私も疫病に冒されているようです。
しかし、皆さんへの指導を怠ることなく
永遠の命を信じ、また不退転の気持ちで励みたいと思いますので
どうぞ、よろしくお願いします。」
村人たちは、一瞬、どよめき、絶句しました。
そして、
次の日の朝には、村人たちは誰一人、そこにはいませんでした。
一方
あろうことか
紫恩も疫病に感染していました。
そして、ある夜中
高熱を発し、すでに息たえだえの身となり
歩くことも、ままならない状態となりました。
紫恩は、数年前の看病の経験から
我が命の最後を感じ取りました。
村人に後始末をさせ、感染するのをおそれ、
ついに
深き山にこもるための整理を始めました。
それは、まさに「死の準備」でした。
・看病の甲斐なく、命を落としたばあさんの形見
・元気な子供が作ってくれた他愛もない玩具
・ご婦人が心を込めたと作ってくれた飾り物
その1つ1つに礼を言いながら
丁寧に・・・丁寧に・・・紙に包み
箱にしまい込みました。
しかし、紫恩は、身支度をしつつも、
多くの苦しむ村人を捨てて
逃げ込む自分が、悔しくて、悔しくて、不甲斐なく・・・。
断腸の思いで整理を続けたのでした。
夜も静まりかえった丑三つ時・・・。
おおよその整理を終え家を出ようとすると
なにやら
人のざわめきのような音が聞こえます。
「あ々、また、村人のだれかが死んだのか?・・・」
足を引きずりながらも、ようやく戸を開け、外を見ました。
紫恩は、その光景に一瞬たじろぎました。
多くの村人たちが、紫恩の家の周りに次々と集まってきているのです。
すでに、ぼやける視界でしたが、目をこすりつつ、
息たえだえに、おそるおそる村人に尋ねました。
「こんな夜中に、
また何が起こったのか? 誰か死んだのか? どうしたんだ?」
村人は、目に涙をためて、次々に言いました。
「苦しいな〜、苦しいな〜、苦しいな〜」
1人1人の、その言葉が重なって、まるで合唱のようでした。
そして、こう続けました。
「俺たちにお世話させてくれよ〜」
「頼むからさ〜」
「看病させてくれよ」
家の前、一面に、まだまだ村人が集まっています。
その光景に紫恩は、
あつく胸に込み上げる歓喜と
あふれ出る涙を止める事が出来ませんでした。
そして、高熱を忘れて
ついに、その場に、泣き崩れてしまいました。
その時、紫恩の手を力強く握りしめたのは
同じく集った、僧の我論でした。
我論も、あふれる涙をぬぐいながら言いました。
「これぞ、大いなる乗り物、ありがとう」
紫恩の顔に、うっすらと笑みが現れました。
そして、その笑みをたたえつつ、
ゆっくりと、静かに・・・
息を引き取ったのでした。
この出来事のあった夜から
村には、まるで、昨日までの地獄絵が嘘かのように
疫病が静まっていきました。
ある村人は、
「紫恩さんが、全部持って行ってくれたんだ」
と言いました。
ある村人は、
「疫病は敵じゃないんだ。
真の心を教えに来てくれたんだ」
と言いました。
それから3度目の疫病が村に流行したとき、
村人は誰1人として、
動顛することなく、疫病から逃げず
「苦しいな〜、苦しいな〜」
と心を1つにして、
紫恩の残してくれていた
「薬草の手引」によって
家人の看病にあたったということです。
その後、
快癒した我論は、
この「薬草の手引」に前書きをし、木版本にし、村人に伝承していきました。
これが今もなお、
この村の宝物として残っているということです。
その前書きには、こう記されていました。
僧紫恩超克己幸己悟己己、常道感得村民苦我苦
我神性求心為無為即我欲非力 僧紫恩大慈大悲人
我無上誇学道僧紫恩 通天大慈大悲菩提心
(意訳文)
彼は、己の幸福、己の悟り、己の、己の・・・・
を超えて、
常に、村人の苦しみを我が苦しみとして感得し、逃げない人だった。
私のたゆむ事なく神性を求める心と知識、そして、全てを手放し、無為にして為す。
という行為は、それ自体が己のためであり、即ち我欲であり、
彼の心の前では、非力だった。
彼こそ「大慈大悲の心を持った人」であり、
私は、同じく学道僧であった 僧 紫恩 をこの上なく誇りに思う。
大慈大悲の菩提心、天に通ず。
安部浩之 作
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