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クッキー泥棒に学ぶ

 


                             文,illust.Kohsi

 

最初に「心のチキンスープ3」( ヴァレリー・コックス著)より、以下、『クッキー泥棒』の話を紹介します。



女が一人夜の空港で待っていた。

飛行機が出るまであと、数時間。

女は空港の売店で本をあさり、

クッキーをひと袋買って、腰をおろした。

夢中になって本を読んでいるうちに、

ふと気づけば横にいる男が、こともあろうに、

二人の間に置いた袋から、クッキーをつまんでいる。


女は騒ぎを起こすのがイヤだったから、知らんぷりを決め込んだ。

女は本を読み、クッキーをかじり、時計をみていたが、

呆れたクッキーどろぼうは、クッキーをどんどん食い荒らしてくれる。

刻々と時間がたつにつれ、女のいらいらはつのるばかり…

私がこんないい人でなきゃ、ぶんなぐってやるわ。

女がクッキーを一つとれば、男もまた一つ取る。

最後の一つが残ったけど、この男はいったいどうする気だろう?

男は、頬をゆるめ、わざとらしく笑うと、 最後のクッキーを手に取り、二つに割った。

その一つを女に差し出し、残りを男は食べた。

女は男からクッキーのかけらをひったくると、内心思った。

「ああ、なんてやつ。この厚かましき、この恥知らず、 一言のお礼も言わないなんて!」


こんなに腹が立ったのは、生まれて初めてだわ。

出発便が呼ばれたときには、ほっと安堵のため息が出る始末。

荷物をまとめて、ゲートに向かい、

「恩知らずのどろぼう」には目もくれずに立ち去った。


女は飛行機に乗り、座席に身を沈め、 やおら本を捜した、あともう少しで読み終わるわ。

荷物をまさぐった女は、驚いて息をのんだ。


なんと、自分が買ったクッキーがある!   


「私のクッキーがここにあるなら…」

うちのめされて彼女はうめいた。

「あれはあの人のだった、それを私に分けてくれた…」

謝ろうにも手遅れだと、女は悲しみに身もだえた。

自分こそ、恥知らずの、恩知らずの、どろぼうだった。

 

以上です。あなたは何を感じられるでしょうか?
最近、雑誌『到知』などでも紹介された逸話(実話)ですから、
サイト上でも「クッキー泥棒」で検索すると、いくつかヒットします。その感想をまとめると、大きく以下の2つになります。

  愉快な、面白い逸話で、上質なコメディ。
  全て、心の持ちようで、こんなに変わる。人生も同じ、心を変えよう。

人の感じる世界ですから、どちらが正しいという訳ではありません。
  上は単純でもあり、ストレートな感想ですが、
  下は逸話を自分の心に置き換えてみようとする深い視点があります。この路線を深掘りすると
   ・全て仮想の現実、仮想に右往左往する心
   ・そして、イメージトレーニング・・・・   というところにいきます。大概ここで止まります。
   仏教で言えば、これは小乗の行き着く先で、大乗・菩薩の視点がありません。
   天狗の発想といっても良いでしょう。いわゆる自分が救われてこそ人が救えるという発想です。
   間違いです。人が救えてこそ自分が救われるのです。
   (他項にて天狗について触れましたが、この天狗というのは外的に恐ろしい、そういう霊体があるというよりも、そこに
    感応する我が身、我が性根がある。ということに気づくべきです。)

しかし、こういう逸話を聞いて、視点を変えて広義に自身を見つめる事も必要です。

この話しの女は悪いことをしたでしょうか?確かに、自分の物と間違って怒り頂点に達した訳ですから悪いと言えば、悪いでしょう。しかし、これは「勘違い」のレベルです。日常生活の中で自分が買ったものを断りもなく無断で食べられたら腹も立つでしょう。ではこの女と男の違いはどこにあるのか?
実際、逆の立場で考えてみれば、浮き彫りになってきます。男は自分のクッキーを無断で食べる女性に腹を立てることなく、最後の1個を半分に分けて渡します。男にとっては、「分け合って食べながら、最後の一個まで分けよう」という発想であり、行動です。女性が怒り頂点に達しグラグラきていたのとは大違いです。

つまり、ここが肝心で、いわゆる「分かち合いの心」があるか否かなのです。この違いが、同じ状況下にあっても、
● この男は、分かち合いを常とし→歓びとし
● この女は、分かち合いの心はなく、自分のものを奪う者に対し、怒り・憤りに心を奪われる
ここに気づくべきです。

そして、私たちの日常生活においても、この構図が頻繁に起こっている事に気づかなければなりません。気づくといろいろな反省点が浮かび上がってきます。例えば

・うちでは「食べない」からおすそ分けではなく、
   美味しいものを頂いた時こそ、お隣さんも欲しいに違いない、だから分けてあげよう。
・妻は洗濯、夫は庭木、子どもは・・・・とバッチリ役割分担する前に、1つの作業を分解して共同で達成する。(役割分担は、一見、公平なようにあって、実際は助け合いの心が湧き出なくなる)

などですし。この延長戦上で発想すれば、子育てにおいても

・2人の子どもが喧嘩をすると悪いので、全く同じお菓子を2つ買う。ではなくて、違うものを2つ買って、ポンッと渡す、そこで喧嘩になれば、それぞれのお菓子を半分づつ分けさせ、「分かち合い」を体感させる。

など、いろいろと出てきます。それぞれに見つめ直し、工夫して下さい。
家庭生活において、一体どれだけ「分かち合い」の感性が根付いているか?
この違いが、この逸話の2人の違いを生み出し、そういう人生になります。

まず家庭で「分かち合い」を積み重ね、「助け合い」のリズムをつくるのです。
これを「慈愛」というのです。
 

最後にTV放映されたマザーテレサを紹介します。